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輪島市-平家の末裔 時国氏の繁栄

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし(平家であらずんば人にあらず)」。
一門の権勢を表わしていることで有名なこの発言の主は、権大納言平時忠。平清盛の義弟であり、輪島市町野の地にある
「上時国家」「時國家」の祖である。壇ノ浦の戦いの後、能登の地に配流された時忠は、現在の珠洲市大谷町に居を構えて生涯を終える。時忠は能登で二人の息子をもうけた。次男の時康(後の則貞家)は大谷に留まったが、長男時国は町野庄(輪島市)に移り、自らの名を名字として一家を興した。以降、時国家は代々の当主の努力によって土豪となり時国村を成し、室町後期になると海運や製塩を手がけ、奥能登に強大な勢力を誇った。戦国時代を経て能登は加賀前田家が支配することになったが、300石を有する時国村は加賀藩領と幕府領(当初は土方領)に分かれたため、二家に分立した。ここに上時国家と時國家の二つの時国家が成立した。両家はともに、歴史の生き証人として、平家伝説を今に伝えている。
二軒に分立する前の時国家は、曽々木浦から1kmほど入った町野川河畔に280坪という巨大な屋敷を構えていました。現在は水田となっており、「古屋敷跡」と呼ばれています。ここで時国家は100人を超える使用人を抱え、農林業の他に製塩、鉱山、石材、薪炭を商い、さらには回船業も果敢に行っていました。大規模農業で栄えた土豪というより、現代でいう総合商社のような進取の気風に富んだ家でした。旺盛な開拓魂と商才があったことはもちろん、権大納言平時忠の末裔であるという誇りが、歴代当主の志を支えたのでしょう。同家は外部環境の変化などから家を二軒に分立しました。本家・分家ではなく、「母屋(おもや)」と「庵室(あぜち)」という、特殊な隠居制度による分立です。家紋はいずれも平家ゆかりの「丸に揚羽蝶」。分立以降も幾度かの試練を乗り切り、名実ともに能登を代表する名家となっています。 藤平朝雄 能登半島広域観光協会相談役 能登平家の郷構想推進協議会副会長


平家の末裔「上時国家」「時國家」

現在の上時国家・時國家は、両家ともに屋敷が国指定重要文化財で、庭は国指定の名勝となっている。
両家の屋敷背後には岩倉寺が鎮座する霊山・岩倉山が、また両家の間には菩提寺の高田寺がある。
かつて時国家が海運の拠点としていたのが町野川河口で、そこから小舟で当時の屋敷に運んでいた。


上時国家(国指定重要文化財)

上時国家は幕府領の大庄屋として、多いときで13の村を束ねる一方、北前船による交易を拡大した。幕末には千石船を5艘所持し、北は北海道から西は九州を経由し大坂に至るまで幅広く交易を行っており、海運による収益は農業・製塩を大きく上回った。同家に伝わる「上時国家文書」からは、中世から近現代におよぶ地域支配の様子がうかがえる。
上時国家住宅は、北前船で得た財をもって1831(天保2)年頃から28年の歳月をかけて造営した豪奢な屋敷で、前田家13代斉泰の能登巡検の折に御宿として提供されることとなった。贅を尽くした奥座敷は「大納言の間」と呼ばれており、斉泰は「余は中納言ゆえ、この部屋に入るわけにはゆかぬ」として、天井に紙を貼って格式を崩し入室したとの逸話がある。

   




お問い合わせ先/輪島市文化課
(0768-22-7666)




  


時國家(国指定重要文化財)

加賀藩領となった時國家は、代々藩の山廻り役や、御塩懸相見人、御塩方吟味人などの役職を務めた。加賀藩は財政の多くを塩の販売に頼っており、能登一円で生産される塩の管理は重大な任務であった。同家に伝わる「時國家文書」は、奥能登の塩の生産・回漕のほか、農林業、社寺などに関する資料を収める。時國家住宅は時国家の分立後に造営された家屋で、茅葺入母屋造り。周囲に椎の古木が茂る池泉観賞式の書院庭園には、5月になるとキリシマツツジが赤々と咲き誇る。 敷地内には、昭和60年の源平800年祭を機に赤間神宮(山口県下関市)より分霊された能登安徳天皇社が祀られている。安徳天皇は壇ノ浦の合戦のとき8歳。二位尼(平時子)に抱かれ、「浪の下にも都の候ぞ」と入水したと平家物語が伝えている。


おすすめポイント

かつて年貢米や塩を吟味していた40坪の広い土間の中心には、1尺5寸角の大黒柱が。