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七尾市-七尾城が語る「能登の戦国都市物語」

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

七尾城は、能登国守護の畠山氏が能登府中(守護所)に代わる拠点として十六世紀前半に築いた巨大な山城である。山麓には賑やかな城下町が形成され、その様子は「千門万戸」と称えられた。同時に京風の文芸活動が盛んになり、「畠山文化」が花開いた。当時の七尾と京との関係は想像以上に強く、畠山文化は都の文化人がストレートに伝えたと考えられる。狩野派と肩を並べた絵師・長谷川等伯は、この頃の七尾に生まれ、畠山文化により素養を磨いた。難攻不落といわれた七尾城も、一五七七(天正五)年の上杉謙信の攻撃によって落城、一六九年にわたる畠山氏の領国支配は幕を閉じた。落城後の七尾城は、上杉方が一時入った後、織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城した。しかしその後、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失った。幾時代を経て城が城跡となった現在も、七尾城山は市民に親しまれ、「七尾城まつり」の舞台となるとともに、往時を偲ぶ文化財や伝承が受け継がれている。
「七尾城山(じょうやま)を愛する会」は平成元年に七尾城山を愛する有志市民が設立した市民団体で、その自然や歴史的環境を整備するため、調査研究やPR、関係図書の発行などの取り組みを行っています。城山にはかつて能登畠山氏の居城・七尾城がありました。中世の城郭でも屈指の規模の山城で、(公財)日本城郭協会により「日本百名城」に選定されています。城跡は現在でもはっきりと残っており、苔むした石垣や点在する曲輪からは、在りし日の堅牢な山城の姿が想像できます。七尾城の最大の魅力は眺望の美しさでしょう。本丸の標高は約三百メートル。山上にあって海を見下ろす立地は他に類を見ません。戦国時代を生きた武将たちも、同じ場所に立ちこの風景を眺めたことでしょう。七尾城跡の歴史的価値は訪れてみればよく分かります。ぜひ多くの歴史ファン、古城ファンの方に、城山に足を運んでもらいたいと思います。
武井忠仁 七尾城山を愛する会会長

七尾城と能登の戦国都市物語



七尾城と畠山文化をもっと詳しく知る
■七尾城史資料館
七尾城跡への登り口にある。「畠山義総書状」「大念寺屋敷出土遺物」「山王二十一社神楽鈴」(いずれも市指定有形文化財)など、七尾城や能登畠山氏の栄枯盛衰を物語る出土品や古文書などを展示・紹介する。CGにより天空都市を思わせる七尾城の姿が復元されている。
■懐古館(国登録文化財)
明治以降に七尾城跡を代々守ってきた飯田家の旧宅。江戸後期の茅葺住宅で七尾城史資料館の隣にあり、現在は一般開放され市民の茶会や句会の場として利用されている。
■石川県七尾美術館
「善女龍王図」「愛宕権現図」(ともに県指定有形文化財)など長谷川等伯の作品を公開するほか、等伯の生涯を映像で紹介している。等伯は畠山氏の家臣である奥村文之丞宗道の子として生まれ、幼い頃に染物屋の長谷川宗清の元へ養子に迎えられたとされる。



お問い合わせ先/七尾市文化課(0767-53-8437)




【歴史物語2:七尾城の攻防】

戦国時代末期には内乱で畠山氏の権威が失墜し、重臣が領国支配の実権を握ることとなった。また城外には敵襲に備えて巨大な惣構えが築かれた。上杉謙信が七尾城に迫ると、城中心部の重臣館では、長氏、遊佐氏、温井氏らによる切迫した軍議が行われた。陥落寸前の七尾城を囲んだ謙信は、折からの月明かりに感嘆し、「霜は軍営に満ちて秋気清し」から始まる漢詩『九月十三夜』を詠じたと伝わる。やがて家臣団は分裂し、1577(天正5)年9月、謙信側についた内応者により七尾城は落城する。


【歴史物語1:七尾に花開いた畠山文化】

能登国支配が最も安定した7代義総の時代には、七尾城下の整然とした町並みが整備された。城の麓の城下町から港付近の能登府中まで、家並みは一里(約 4km)余り続き、その様子は「千門万戸」と称えられた。文献には、義総の七尾城内の屋敷には苔庭があり、京の文化人を招いて歌会などが行われていたとある。


【歴史物語3:攻防と落城にまつわる伝承】

籠城戦の際、白米を流すなどして城内に水が十分あるように見せかけて敵を欺いたという「白米伝説」は全国各地に残る。七尾城の戦いにも白米伝説があり、謙信は滝の流れを鳥がつついたことからこれを見破ったとされる。退陣しかけていた謙信が引き返したところが史跡能登国分寺跡附建物群跡の南側にある「もどり橋」だ。この他にも、地域には七尾城の攻防や落城にまつわる伝承が数多く残っている。