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金沢市-三つの寺院群と茶屋街 〜歩く・観る・祈る〜

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

金沢の都市としての形態が整うのは、一五八三(天正十一)年の前田利家の金沢城入城以降である。一五九九(慶長四)年から
一六一◯(慶長十五)年にかけては内・外二重の惣構(堀)が築かれ、これに伴って計画的な城下町空間が伸張していった。武家屋敷地は、藩の重臣である「八家」の屋敷を城の膝元に置き、それを取り巻くように同心円状に形成されていった。城下中心部を南北に縦断する北国街道の沿道には有力商人の町家が配置された。寺院は防御のため城下三方の縁辺部に集められた。北国街道が浅野川と犀川を越える東西の渡り口(現在の浅野川大橋・犀川大橋)近く、すなわち卯辰山山麓寺院群と寺町寺院群の近くには、
一八二◯(文政三)年にそれぞれひがし茶屋街とにし茶屋街が設置され、明治に入って浅野川河畔に主計町茶屋街が成立した。幸いにも戦災を免れた金沢ではこうした都市構造が今に受け継がれている。寺院群や茶屋街をめぐる迷路のような路地や急な坂道には、城下町の空気がひっそりと漂っている。

七尾市-七尾城が語る「能登の戦国都市物語」

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

七尾城は、能登国守護の畠山氏が能登府中(守護所)に代わる拠点として十六世紀前半に築いた巨大な山城である。山麓には賑やかな城下町が形成され、その様子は「千門万戸」と称えられた。同時に京風の文芸活動が盛んになり、「畠山文化」が花開いた。当時の七尾と京との関係は想像以上に強く、畠山文化は都の文化人がストレートに伝えたと考えられる。狩野派と肩を並べた絵師・長谷川等伯は、この頃の七尾に生まれ、畠山文化により素養を磨いた。難攻不落といわれた七尾城も、一五七七(天正五)年の上杉謙信の攻撃によって落城、一六九年にわたる畠山氏の領国支配は幕を閉じた。落城後の七尾城は、上杉方が一時入った後、織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城した。しかしその後、港に近い小丸山での新たな築城により、七尾城は城としての機能を失った。幾時代を経て城が城跡となった現在も、七尾城山は市民に親しまれ、「七尾城まつり」の舞台となるとともに、往時を偲ぶ文化財や伝承が受け継がれている。

小松市-平安の世の歴史物語が息づく歌舞伎のまち・小松

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

古代律令制下において最後に成立した加賀国において、国府が置かれたのが小松であった。国府周辺の里山には僧侶の修行の場がつくられたが、これが後に白山信仰の布教寺院となる。白山衆徒は国の役人たちと対立し、ついには後白河法皇と平清盛の対立激化の契機となる涌泉寺事件が起きた。その清盛の寵愛を受けた女性として『平家物語』に登場するのが加賀の白拍子・仏御前である。仏御前はこの世の無常を悟り、清盛のもとを離れ、ふるさとに帰ったとする伝説を残す。市内には源平の武将の足跡も残る。多太神社には篠原の戦いで木曽義仲軍に敗れた斎藤別当実盛の兜とともに、義仲と実盛の悲話が伝わる。国府の港として栄えた安宅には、義経・弁慶の主従と関守の富樫が登場する「安宅の関」伝説が残る。仏御前、実盛、安宅の関にまつわる伝説を下敷きとして、室町時代に謡曲『仏原』『実盛』『安宅』が生まれ、江戸後期には歌舞伎『勧進帳』が完成した。市内に残る歴史物語を訪ねて歩けば、現在「歌舞伎のまち」として知られる小松の風土や人々の精神性が透けて見えてくるだろう。

輪島市-平家の末裔 時国氏の繁栄

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

「此一門にあらざらむ人は皆人非人なるべし(平家であらずんば人にあらず)」。
一門の権勢を表わしていることで有名なこの発言の主は、権大納言平時忠。平清盛の義弟であり、輪島市町野の地にある「上時国家」「時國家」の祖である。壇ノ浦の戦いの後、能登の地に配流された時忠は、現在の珠洲市大谷町に居を構えて生涯を終える。時忠は能登で二人の息子をもうけた。次男の時康(後の則定家)は大谷に留まったが、長男時国は町野庄(輪島市)に移り、自らの名を名字として一家を興した。以降、時国家は代々の当主の努力によって土豪となり時国村を成し、室町後期になると海運や製塩を手がけ、奥能登に強大な勢力を誇った。戦国時代を経て能登は加賀前田家が支配することになったが、300石を有する時国村は加賀藩領と幕府領(当初は土方領)に分かれたため、二家に分立した。ここに上時国家と時國家の二つの時国家が成立した。両家はともに、歴史の生き証人として、平家伝説を今に伝えている。

羽咋市・志賀町・宝達志水町ー「漂着神(ヨリガミ)」の聖地〜日本海交流が伝える祈りと祭りの文化財めぐり

【いしかわ歴史遺産ストーリー】

口能登の沿岸地域は、日本海交流により、先進の文化や技術を受け入れ独特の信仰文化を育んできた。人々は、異世界から漂着するさまざまなモノに神を感じ、祈りを捧げた。羽咋市の中央に位置する邑知潟は、新来の文化をいち早く受け入れた天然の良港であり、志賀町福浦港は、はるか大陸の渤海国と結んだ古代日本海交流の拠点である。羽咋市の海岸砂丘には「渚の正倉院」と呼ばれる寺家遺跡があり、奈良・平安時代の多彩な祭祀遺物は、古代気多神社の祈りのようすを物語る。『万葉集』には、七四八(天平二十)年に越中国司の大伴家持が「気太神宮」へ巡行した記録があり、宝達志水町にはその参拝ルートと伝わる古道「之乎路(しおじ)」が残る。気多大社の祭神は出雲大社と同じ大国主命(大己貴命)で、海上から来臨したとされる。羽咋市長手島には、出雲神話の「因幡の白兎伝説」と同内容の伝承があり、山陰地域との深い交流を示している。沿岸部には、祭神の来着伝承を持つ多くの神社とともにタブノキの巨樹が分布し、神木となっている。折口信夫は、タブノキが寄り来る神々の依り代となったと考えた。今なお禁足を守る気多大社の社叢「入らずの杜」はその象徴である。