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私の旅コラム


【著者プロフィル】
元新聞記者。夫と娘の3人家族で、趣味はおいしいものを食べることと、バレエ、それにネイルサロンに通うこと。生まれは石川ではないのですが、よそから来た人の方が興味津々ってことありますよね。そんな私がイチオシする石川の情報をどうぞお楽しみに。

春のコラムは全7回。今回は、第2回「一向一揆と加賀百万石の歴史」です。

春のコラム 第2回「一向一揆と加賀百万石の歴史」


金沢城へ向かう百万石行列




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「百姓の持ちたる国」に武家文化花咲く


 石川というとだれもが連想するのが、県都金沢を中心とした「加賀百万石」の城下町ではないでしょうか。加賀藩は初代前田利家から14代利慶寧(よしやす)まで約300年にわたり、江戸期最大の外様大名として栄えました。

 しかし石川にはそれ以前に、もうひとつの顔がありました。長享2(1488)年、圧政に苦しむ本願寺門徒を中心とした軍勢が立ち上がり、当時の守護をやぶりました。「百姓の持ちたる国」と称され、約1世紀にわたり宗門と民衆による自治が行われたのです。その後、今の「金沢城公園」のあたりに本願寺の末寺にあたる金沢御堂が完成し、政治・経済・軍事の中心を司るようになり、城下町の原型が形成されたといわれています。

桜の石川門


 しかしその後織田信長の勢力が強まり、天正8(1580)年、金沢御堂が陥落、白山ろくの鳥越城を拠点にした山内衆と呼ばれた門徒たちも壮絶な戦いののち敗れることとなりました。白山市鳥越地区(旧鳥越村)にある「鳥越一向一揆資料館」では、悲しく散りながらも、理想に燃え、民衆による大きなパワーが炸裂した当時をうかがい知ることができます。

鳥越城跡



金沢城 本丸東高石垣
 信長の家来である佐久間盛政が金沢入りし、その後に金沢城主となったのが前田利家です。利家は天守閣や堀や石垣を築き、城の形を整えていきました。金沢市で毎年6月に開かれる「百万石行列」では、利家の金沢城入場を先頭に2代利長、3代利常と利常に幼くして嫁いだ2代将軍秀忠の娘珠姫らの行列が市内を練り歩きます。鎧甲も勇ましい馬上の人やきらびやかな衣装など、華やかな時代絵巻は一見の価値ありですよ。

百万石まつりの加賀鳶はしご登り


 その加賀藩には「殿様9人」という言葉がありました。「八家」と呼ばれる重臣と藩主前田家を指し、藩の政務の最高職である年寄りはこの八家から選ばれ、それぞれ1万石を超える大名並みの禄高を誇っていました。金沢市の「藩老本多蔵品館」や「前田土佐守家資料館」には、当時の武具や美術品、古文書などが展示され、華麗なる加賀百万石の政治の中枢を担った家臣たちの活躍を今に伝えています。

 また、一時は130万石を超えるといわれるほどの大大名でありながら、外様であった前田家は、婚姻により徳川家との血縁関係を積極的に結び、幕府との関係を良好に保とうとしました。11代将軍家斉の22女・溶姫が14歳で前田家13代斉泰に嫁いだ際には、江戸の加賀藩上屋敷内に迎えるために新たに住まいが造られ、その門は朱で塗られました。それが現在、東大のシンボル「赤門」として知られていることも付記しておきます。

東大の赤門


 一向門徒が礎を築き、加賀百万石として花開いた城下町金沢。金沢はその後、幸い戦禍に遭うこともなく、藩政時代当時の面影を残しながら、歴史を刻み続けています。

春のコラム 第3回「「和」の似合うまち、金沢」へ


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